【メンタル不調における決断力】決められない理由

 

自身もメンタル不調を経験しており、かなり回復はしているのですが、「なかなか決められない」ことに悩んでいます。

メンタル疾患には、実際に「優柔不断」という症状も出るらしいです。
だからこそ、ゆっくり休む必要はあるのですが、もう少し掘り下げて考えてみたいと思いました。

そこで、「なぜ決められないのか」の原因を実体験をもとに考えて、有効そうな方法について書いてみたいと思います。

原因:判断を誤った時のダメージが気になるから

「なぜ、決められないのだろう?」
そう悩んでいた時に、判断を誤った時のダメージが気になっていたのだと。
確かに、心身が優れない時って、些細なことでマイナス気分になってしまいがちです。

誤った判断をしたことで、「不安」「苛立ち」「余裕のない焦り」などを感じたくないから、決定を保留にしてしまうのでしょう。
些細なことでも、例えば「予定を決められない」「買い物で、物を選べない」など挙げられると思います。

対策も大事ですが、まずは、問題の原因が分かって良かった。
問題の原因が分からないままだと、判断を迫られる度イライラしてしまいます。
原因が分かることで、とりあえず、落ち着いて対処ができると思います。

 

判断に迷ったら?

原因を踏まえて、判断に迷ったときの思考法についてあげてみました。

今すぐ決めたい「理由」を考えてみる

もしかしたら、「今すぐ決めたい」という思い込みから判断を焦っているだけなのかもしれません。
決める「期限」を設定すると、計画的に焦らずに考えられます。

時間を忘れられる方法を考えてみる

決断ができない」と悩んでいる時は、心に余裕がない時なのだと思います。
だからこそ、時間を忘れられる方法を持っておく必要があるのだと。

直接的な対処法ではないかもですが、心に余裕があると、無駄な焦り持って決断しなくても良いと思うのです。

例えば、「音楽聴きながらの散歩」「自分にとって負荷のかからないジャンルの読書」などなど。
軽く没頭できて、時間を忘れて続けられるものが良いですね。

働き始めると、自分に合った方法を見つけるのも大変になってしまいます。
休んでいる時だからこそ、ゆっくり時間を堪能できるような趣味を開拓するのも一興かもです。

 

うつは甘え? ー 実体験に基づく考察:甘えの基準は自分で引いて良い ー

よく、うつ病もしくはうつ的で大変な状態の方から「これは甘えなのか」「甘えとそうじゃないことの境界がわからない」という言葉を聞く。

とても悲痛な心の叫びだ。
自分もメンタル疾患と休職を経験した身として大変共感できる。

自分は30代だが、自分より若い人はもっと大変なのだろう。
少ない人生経験で、この複雑で閉塞感が増した社会で生きていかなくてはならない
SNSでも、彼らの心の叫びが飛び交っている。
こういう状況で、メンタル疾患の経験者の立場から自分なりで考えをまとめようと思った。

タイトルにもあるとおり、「甘えかどうかの境界は自分基準で良い」
という事。

その理由を結論から言うと、
自分の人生経歴を一番よく知っているのは、自分だから」と言う点である。甘えとは何か?
よく言われるケースとしてはこんなところだろう。

  • 周りも皆頑張っているのに、自分だけ権利を主張するのは「甘え」だ
  • こんなところで妥協してたらこの先やっていけない。それは「甘え」だ
  • 自分で自分を甘やかすな。そのような考えでは成長できない

自分も10代・20代の頃よく周りから言われていた。
そういう言葉に対して今なら、知らんがな。と言いたい。
そして、
お前はそれを堂々と言えるぐらい立派な人間なのかとも言いたい。

しかし若い当時は自分で抱え込み、むしろ自分自身にも「甘えるな」と言い聞かせていたものだった。
卑怯な人間や、都合の良い人間がいること、価値観の押し付けが人権侵害であることを知らなかった。
純粋すぎたのだ。

「甘え」など曖昧な概念だ。人によって定義も違う。
そのようなあやふやな考えで、自分を苦しめる必要などないのだ。

自分を甘やかすのも必要な時だ。

話を戻そう。
「自分の人生経歴を一番よく知っているのは、自分だから」甘えは不要だという話。

当たり前だが、自分の人生経歴は、自分の記憶に刻み込まれている。
他人が自分も人生経歴を100%把握するのは無理なのは明らか。
だから、過去に受けた傷・トラウマが原因で自分を甘やかすことがあっても問題ない。
むしろそういう時期も必要だ。

実際、甘えと他人に言われたら頭にくると思う。
なぜなら、
自分の何を知っているんだ

と思うからだ。

その感覚は正しい。
自分の人生経歴や辛い感情を理解しようとせず、土足に踏み込んでくる暴挙を許してはいけない

不快な相手にどう対処していけば良いか

それでも干渉してくる他人はいるかもしれない。
そういう悪質な相手とは、距離をおくしかない。

そして、自分に共感してくれる人、賛同してくれる人を大切にした方が良いと思う。
そうすることで、力も湧いてくるし、パフォーマンスも発揮できるはず。

自分をわかってくれる人のために頑張る。これで良いのだ。
そう言う時は、甘えかどうかは関係なくなる。
つまり、周りに奉仕したいという気持ちになるはずだ。力も湧いてくる。

こうやって立ち直れるのではないだろうか?
自分も20代後半から、付き合う人を選ぶことは積極的にやってきた。
だいぶ生きやすくなってきたと思っている。

クセのある人とは一時的に仕方なくても、長期的な付き合いは不可能だ。
残念ながら、彼らの思考は良心的ではない。
他人を騙す、搾取する、そういう姿勢がメインにあることを疑わなくてはならない
本人に悪気があれば当然だが、悪気がないケースもある。
そう見抜いて、付き合う人間を選んでいくべきだ。

まとめ:信頼関係を結んでいる相手のために頑張る

思いの丈を話してみたが、自分の最大の理解者は自分。
だから、甘えの基準は自分で引いて良いということだ。

そして、他人のために頑張るかどうかは、信頼関係がベースにある。
平気で自分を罵ったり、イジったりする人間なんかのために、頑張る必要はない。

小さな親切で幸福度を感じられる理由(2)

高い目標だと幸福度を感じるまでが大変

前回では ↓

https://creative-life-diary.hatenablog.com/entry/2022/07/25/225801

小さな親切の方が簡単に役立ち感を得られるという話をしました。

 

これって興味深いと思うのです。

 

例えば

  • 高い目標を達成して、周りに貢献
  • 小さな親切で、周りに貢献

どっちが楽かと言ったら、後者ですよね。

 

前者は仕事の成功などですが、

大きな目標は達成できる確証もないし、失敗するかもしれない。

 

けれど

小さな親切は、基本的に失敗しない

 

もちろん、大きな目標を設定して頑張るのも良いです。

ドーパミンも出ますからね。

 

でも

身の丈にあったことで、人の役に立つ方が幸せのコスパは良い

のかもしれませんね。

 

小さな親切やボランティアで、

意外と自分は役に立つんだなと実感できたりもします。

 

実際、筆者もボランティア経験があるので、その実感はあります。

 

自分に対する誇りの様なものも、ささやかに感じられるかもしれません。

 

自分にできることをしていく

人間、過去には色々なことを抱えていると思います。

時には恥ずかしいことや、情けないこと、振り返りたくないことも。

 

けれど過去は変えれません。

そんな時、自分にできる事で人の役に立つことを心がければ、自分を取り戻せるかもしれないですね。

 

過去はどうであれ、今は恥ずかしいような行いはしていない

と思えば、気持ちも楽になれます。

 

身の丈にあった行動を意識で、人間関係も楽に

人間関係というのは、パワーゲームになるとしんどいです。

 

しかし

自分の存在感が感じられれば、人間関係の辛さも軽減できると思うのです。

そのヒントが親切にあるのかもしれませんね。

小さな親切で幸福度を感じられる理由

今日はエピソードを交えた心理学系の記事です。

 

ちょっとした言葉がけで自分の気分も明るくなる

先日美容院に行ってきた時のこと。

 

帰る際に

「来月以降に店員が減って店が混み合いそうなので、可能なら次回予約を今取れますか?」

と言う趣旨のお願いがあった。

 

その場で予約を取り、「人が減って大変ですね」と言葉を添えたところ、

心なしか店員さんが明るい表情になったのを感じた。

 

自分はその日色々あって、体が疲れ気味だったのだが、

帰り道はなんとなく足取りが軽くなった気がした。

 

これはなんだろうと思い、

ふと「小さな親切が幸福度をあげる」という言葉を思い出す。

 

小さな親切は幸福度向上に役立つ

よく、日本では幸福度の低さが問題視されることが多いですよね。

 

筆者も、仕事や人間関係で悩んでいた時は中々感じられなかった。。

 

幸福になるためには何が必要なのか

 ー お金か、友人か、恋人か、人生の目標か

 

もちろん、それらも一理あるでしょう。

 

しかしその一方で、

幸福度を感じるには小さな親切で良いという知見もあります。*1)

 

これは、カリフォルニア州立大学(米国)、ソニア・リュボマースキーの実験。

 

お金のかからない小さな親切を週に5回 × 6週間行ったところ、幸福度が40%上がったという結果が出ているのです。

 

なぜ、小さな親切で幸福度が上がる?

それは

「自分でも、他人に親切できるだけの余裕がある」

と実感できるからだと思います。

 

今回紹介したエピソードを振り返った時にも、そういう心覚があります。

 

というのも、

人間、自分の事で一杯になっている時に無力感を感じてしまう

と思うのです。

 

これはあくまで実体験なので、統計的データではないですが。。

 

例えば、頑張っているのに役不足感があると心もとないですよね。

 

けれど小さな親切であれば、意外と役立ち感を得られます。

 

次回更新↓

https://creative-life-diary.hatenablog.com/entry/2022/07/25/232621

 

 

*1) [現代ビジネス] 「小さな親切」をするだけで幸福感は高まる!心に余裕がない人ほど「一日一善」が必要なワケ

gendai.ismedia.jp

自作カレーは意外と楽チン

昨日は夏野菜でカレーを作ってみた。


使った食材は、玉ねぎ、ピーマン、とまと、ナス、ウィンナー、そして、生姜。


調味料はカレー粉の他、醤油、砂糖、料理酒、ケチャップ、オイスターソース。


定番のSBカレー粉は辛いので、蜂蜜と小麦粉で甘くできる。


カレールウで色々な味を楽しむのも良いが、定番味で手軽に作るなら、このレシピでいけるから楽。


フライパンでできるし。


今回は水を入れたが、水無しならドライカレーにもなる。


生姜を使うので、体が内側からポカポカに。夏って冷房の効いた部屋で過ごすから、意外と体が冷えやすい。

生姜は夏にも効く。

休職当事者が焦らないための考え方を紹介

筆者は実は休職して10ヶ月。

原因は主に過重労働ですが、今は退職して、今もゆったりとした日々を過ごしています。

 

休職すると「復帰への焦り」があると思います。

今回はそんな方向けに焦らないための考え方について記事を書きました。

 

ブランクを気にするような会社はこっちからお断り

長期ブランクが原因で雇用されないことが、焦りの原因の大半をしめているのではないでしょうか。

 

けど、長期間休んでいるのはそれだけ働いた証。

しっかり療養に専念してからで良いと思います。

 

そもそも

長期ブランクを気にするような会社はブラック企業の可能性が高いです。

 

労働者に、精神的・体力的なタフさを求める企業文化

と考えられるわけですので。

 

むしろ、、

ブランクが長いことが、ブラック企業をきちんと選ぶ基準になりうる訳ですから、そう考えると楽になれるのではないでしょうか。

 

この国の労働環境が少しでもマシになるまで時間を稼ぐ

2つ目の考え方です。

かつてのこの国の労働環境は、超々劣悪でした。

 

ですが、働き方改革によって徐々に改善されています。

 

こと10年ぐらい前まで、ブラック企業だらけ。

 

サービス残業・過労死・ハラスメントのオンパレードでしたから。。

 

そして、労働環境の改善は今後も続いていくでしょう。

 

けれども、まだまだ欧州と比べれば劣悪。

 

ならば、

少しでも長く休んで時間を稼ぎ、

この国の労働文化が少しでも改善されるまでゆっくりすれば良いのです。

 

国の文化や風習なんて、自分の力じゃどうにもなりませんからね。

 

 

 

 

 

 

自己責任社会の終焉

自己責任って正しいのか?

今回はそんなことを書いてみます。

 

自己責任は正論のように思えますが、とても窮屈に感じる人もいるのではないでしょうか。

今回は、そんな問題に投げかけてみます。

 

自己責任とは?

1990年代〜2000年代ごろから、日本では"自己責任"がしきりに言われるようになりました。

 

その象徴が、当時から社会問題化されていた非正規雇用

やむなく劣悪な労働環境で働いていても、自己責任とされてしまう。

そして、浮上するのにも"自助努力"が必要だけれども、日本型雇用では中々定職にありつけない。

 

事実、1997年の経済同友会でも、

「小さな政府と自由な競争社会を実現するため、個人や企業は自己責任に基づいて経済活動をすべき」という趣旨の提言がされています。[*1)の要約]

 

身近な例では、こんな言い回しに覚えがあります。

  • 成功できなかったのは努力が足りなかったからだ
  • 本人は努力したつもりでも、それは本当の努力じゃない

 

自己責任は正しいのか?

筆者はNoです。

筆者も、部活での競走や受験競争、リーマンショック不況下での就職活動、そして過重労働を経験している立場なので、これはよく共感できます。

 

その理由は、現代は競争社会だから勝ち負けがあるのは当たり前。

しかし、負けたのは本人の責任になるのはおかしいからです。

 

スクールカースト、受験、就職、昇進...世の中競走だらけ。

 

けれども、そんな競争社会で負けたら「努力が足りない」と説教されてしまう

これは理不尽です。

 

そもそも勝ち組というのは、負け組がいるから勝ち組ですからね。

勝ち組の彼らは負けてしまった人たちに感謝こそすれ、勝ち誇るなんて傲慢

 

そういうふうに考えると楽ではないでしょうか。

 

もちろん、努力にある程度のインセンティブは必要でしょう。

出ないとソ連みたいな社会主義になってしまいますからね。

 

しかし、たまたま活路を見出せなかった人が、貧困に陥っても自己責任とされる社会はおかしい。そう思うのです。

 

まずはその認識に立つと、楽になれると思うのです。

 

*1) 隠された奴隷制 集英社新書
https://www.amazon.co.jp/dp/B07WHHK6N2/ref=cm_sw_r_tw_dp_HT5XS047NMHMTCSN88T0